「人が人を殺める勿れ」
人が人を殺める勿れ
きょうだいが殺し合う勿れ
戦のない世が来るように
祈りと共に此処に在る
長い年月を経て
此処に在るのは
祈りと共に散り去った
人々の魂を救うため
戦のない世が来ることを
祈り
願い
伝えるため
何千何百の時を経て尚
争いの絶えないこの世の中で
祈りと共に我は在ろう
娯楽の中に光を見出せ
常に喜びと共に在れ
戦の象徴であるこの姿に
未来永劫
平和を祈る者となれ
Instagramにもアップしたこのメッセージは
京都は大覚寺で
「膝丸(薄緑)」という日本刀を見ているときに受け取ったものです
膝丸は源氏重代の宝刀で
前回の記事に書いた
北野天満宮所蔵の鬼切丸(髭切)の兄弟刀とされています
鬼切丸(髭切)と比べると
どことなく寂しげに見えた膝丸のことが気になって
2度目の訪問をした際に受け取ったのが
このメッセージでした
実は「鬼切丸(髭切)」「膝丸(薄緑)」と呼ばれる刀は複数存在しているようで
北野天満宮や大覚寺に所蔵されているものが
数々の逸話を生んだ「それ」そのものではない(かも知れない)とのこと
とはいえいずれも
平安時代や鎌倉時代に作られたものであることは確かですし
人々の長い争いの歴史を
それでこそ骨肉の争いを
かなり近いところで見続けてきた刀であることに変わりはないのです
このメッセージを送ってきた存在が何者なのかは
わたしには分かりません
元の持ち主の誰かかも知れないし
もしかしたら「膝丸」そのものかも知れない
ただ、刀、実戦で使われた刀、というのは
宝刀等のいちども振るわれていない刀に比べると
やはり持ち主の念であったり
その刀に込められた願いや想いが籠もっているように感じますし
まだそこで誰かが振るっているような生々しさを覚えます
この膝丸という刀が実戦で使われたかはわたしには分かりませんが
この刀からわたしが感じたのは
血で血を洗うような争いはもうやめよう、という「願い」
いつか争いのない世の中になりますように、という「願い」でした
それも1人ではなく、たくさんの人々の「願い」です
もしかしたら膝丸は
どれだけ時を経ても争いがなくならない世の中に
うんざりしているのかも知れない
だけれど
多くの人の願いを受け止め
悲しみを受け止めてきたからこそ
争いのない世の中を願うことを
やめられないのかも知れない
そう考えると
この最後の一文がずっしりと胸に響きます
----- 娯楽の中に光を見出せ
常に喜びと共に在れ
戦の象徴であるこの姿に
未来永劫
平和を祈る者となれ -----
争いのない世の中なんて
いつまで経っても来ないのかもしれない
だけど諦めてしまったら
きっと何も変わらない
日本だけでなく何処の国でも
刀や剣は邪を祓うものとして大切にされてきました
女性を中心として巻き起こっている刀剣ブームにも
きっと意味があるはずです
それらを踏まえた上での
この「膝丸」からのメッセージ
何かを感じていただけたら幸いです
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